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9月1日
晴天のもといよいよ「新しい波」の日中友好は35周年記念訪問国の出発の日。
私達は79名で、中部国際空港から出発。約14万円の旅行によくこれだけ参加をいただけたと思っている。本当にありがたい。
昔、県議時代、数人のベテラン県議は飛行機をほぼ、チャーターの状況で訪中されたりしていた。当時はまず、新人の我々にしてみれば、バス旅行が幾台できるかなんて時代だった。私にとって、初めての海外への後援会旅行だ。無事にと思っている。
ところで、今度の党役員人事ならびに改造内閣で私は、国会対策副委員長をおおせつかった。29日に二階先生から電話をいただいた時本当に身の引き締まる思いだった。ご期待をいただいた事に深く感謝申し上げたいと思った。同時にやはり私を応援して下さっている人が多くおられることを思ったら、やはりポジションを受けることは本当にありがたいと思った。全力でこれに頑張り、そして成果をあげて次回選挙を頑張りたいと思った。8月30日午後4時から、第一回目の国対正副委員長会議が開催された。大島委員長、小坂筆頭副委員長から挨拶があった。「今後6年間参議院と衆議院で与野党が逆転したままの国会となることから、これまでとは全く違う大変な国会となる事を心する様に」と言われた。それには参議院における状況を性格に把握しなければならないという事だとの事。そしてそれぞれ担当する委員会についてもできるだけ出席をして詳しく状況を把握することだと言われた。
次に、まず、今回の臨時国会について各委員会のメンバーを決めなければならない。大臣副大臣政務官になった人達を除いて委員会におけるメンバー理事の補充をする作業は人数と期別と派閥間の数字合わせをする事が一番大変な作業だった。私は今日(9月1日)から中国へ行くのでなるべく早く作業をして国対事務局へ二階グループの人事を出さなければならない。一方で当日8月30日は夕方から日間賀島へ行く予定もあって気がもめたが、30日の4時からの会議の後すぐに砂防会館でうちの今野事務局長と打合せをして、8月31日事務所の荒井君がまとめて提出にこぎつけておいた。しかし、第2日目の国対正副委員会が9月3日の午後2時から開催されるので、私は、今回の訪中にあたって9月2日の釣魚台のパーティーに私自身は出席することはなく2日午後5時北京発の飛行機で成田へ帰ることになった。ちょうど土・日にあたっている今回の日程だったので、北京にいる兄が途中から北京における行事に私にかわって出てくれることとなった。助かった。選挙で時々兄に助けてもらったことはあるけど、よもや海外でも助けてもらえるなんてほんとうに助かった。感謝、感謝だ。翌日、9月4日朝10時から国会法の勉強会もある。本当に予定が詰んでくるが頑張りたい。ところで、中部国際空港から出発の時皆さんで集合写真を撮った。バスで1号車と2号車に分けて撮ればよかったが、全員で撮った。その後DFS近くに知多半島のそれぞれの地域から展示品を置いて地域の文化に親しんでもらう為のコーナーで今回は半田市成岩4区の山車の模型とデワ人形が置いてあったので、皆さんと写真を撮った。こうした地域の展示をしてくださる事は本当に良い事だと思う。地域の売り込みの方法をもっと頑張ればと思っている。ところで北京までは約3時間。もはや中国の一部分は日帰り圏ではないか?私も今回は1泊で帰国するのだし。13時05分に飛行機は天津市に着く。今回は日中友好35周年という事で。釣魚台のパーティーまでの間1つはやはり当時田中角栄首相、大平外相、中国側は毛沢東主席、周恩来首相というペアーで日中友好を進めた過去の歴史をふり返る作業を参加者の皆さんとしておきたいと思った。そこで天津市といえば周恩来首相の記念の地なので、まず、天津市を少し周恩来首相の足跡を訪ねてみようともと思っている。そして夜は少し早めに天津料理特に、肉まんを食べてホテルへと向かおうと思っている。少し機内でリラックス。
そうこうしている内に飛行機は天津空港に着いた。天津市は中華人民共和国の中にある4つある特別市(北京・上海・重慶そして天津)の1つなのに想像以上に小さな空港で驚いた。しかし、すぐ隣に大きな空港の工事現場がある。2008年北京オリンピックの為に急ピッチで工事をすすめているとの事。間に合うか否かはまだまだ心配との事だ。
入国審査を抜けて2台のバスに分乗した。本当に後援会と海外に来たんだ~と思うと初めての事だけに感動した。天津市市内をぬけて一路周恩来、鄧穎超記念館へ。途中で全体の風景から見て奇妙に近代的な建物を見つけた。この天津市は北京から約1時間少々の距離にある都市から2008年のオリンピックの時サッカー競技とバトミントン競技が行われる。それぞれの競技場が作られていた。さて、記念館に着いた。記念館の看板は江沢民氏によって揮毫されていた。中もとてもきれいに整備されていた。正面に周恩来さんと鄧穎超女史の2人の立像に迎えられる。この館に来た目的は私達の今回の訪中の一番大きな目的が日中友好35周年である以上この日中友好の中国側の立役者はもちろん毛沢東氏と周恩来氏であるのだから、まず、真っ先にここにという私の計画で来ることができた。私の大きな疑問が昔からあった。周氏はこの天津市にある南開中学校を卒業し、一度は日本に留学したことのある言わば知日派の指導者であると思っていた。(現実には日本で大学受験がうまくいかなかった周氏はそのままパリへ留学した。)しかも彼は決して貧しい生活をしていたわけではないのに何故毛沢東氏と何故共産主義に目ざめてゆくのかという所が実は私の疑問だった。おそらくその理由は私の国日本に大きな理由があったのではないかと今日の訪問で思った。不幸は日中戦争によってこの広い国土と国民を守る為に中国人として立ち上がる時、当時政府のあり方、全ての価値感の両極の綱引きが歴史の中で行われたとするなら必然の結果だったのだろうと思われる。その後は中国にありがちな権力闘争の中でさまざまな立場で蒋介石と権力闘争をしたのだろうと思われる。しかし、一方でよく自民党も大衆政党と言われるが14億人の人口の国家の中ですでに亡くなって約30年も経過しているのにまだ尊敬を国民から集めている政治家とはどんな政治家であったのか、これは見習うべき大人なのだと感心した。ちなみにこの記念館の中で唯一日本人の名前まではっきりと書かれた形で周氏との事が説明されていた人が居る。創価学会の池田名誉会長その人である。1968年まだ日本国内の政府のごく一部であるいは中国政府内でも日本国内の世論もなにも無くて日中国交正常化をなすことについての疑問があったとき、名誉会長が一人立ちによって大衆への日中の国交正常化を説かれたという史事こそが日中間における努力をされた先人の中でもひときわ大きな足跡をのこされているんだな~と理解した。最後にこの記念館の館長が出てこられて記念帳に名前を書いてほしいと言われたので「日中友好35周年のこの年にこの、記念館に来ることができた。私達はこれから日中友好の為、行動してゆく事を誓います。平成19年9月1日、日本国衆議院議員 伊藤忠彦」と書き残した。記念館を後にして次は彼が卒業した中学校へ向かった。天津市南開中学校だ。この中学校については、中学校の校長先生が自ら学校の中も案内して下さった。なんとこの中学校は胡錦濤主席も卒業している中学校だった。たしかに立派な学舎だった。その後少々古文化街で散策をした。いろんな物を売っていたが僕は陶器のビンに入っていたヨーグルトドリンクと天津名物のひねり菓子を食べた。もしかしたら明日は腹痛かな~と思いつつ食べてしまった。が、なんとも無くその後も私の食欲は続いた。そして夕食会場のレストランへ行った。肉まんの有名な店だ。古くは、120年の歴史があり、かつて清朝の終わり頃、袁世凱が西太垢にこの肉まんをプレゼントして喜ばれたとか。たしかに本当においしい料理だった。この店には毛沢東、周恩来、ホーチミン、江沢民各氏など、中国共産党の幹部が本当に沢山来ている。知る人ぞ知る店だったようだ。その2階を我々は借り切ってのパーティーとなった。本当に心に残るパーティーだった。さて、レストランでの楽しい時間も終えて一路ホテルへ。天津市からホテルまでは約1時間30分。午後8時40分頃ホテルに着いて私はすぐに二階先生、井脇先生、鶴保先生、3人の合同パーティーに合流し無事に挨拶ができた。明日のメインは私に代わって兄が出るのでくれぐれもよろしくお願いします。と言っておいた。9時過ぎにパーティーが終了して、二階先生の記者懇談会があった。私も同席させてもらった。明日、二階先生は唐家璇氏をはじめ薄キライ商工大臣、国家旅游局長など、要人と会われる。これに対し、日中友好年の今年、環境省エネあるいは東シナ海の問題など、積極的にしかも早く対応してゆく為の日中間の会話を積みかさねることについて話をされた。同時にテロ特については与野党共によく議論をしつつも、もし、なかなかまとまることができなければ、新法をつくっても日本の国際貢献を継続させるべくすすめたいとの事だった。これが日本の国の為だと言われていた。10時すぎ、ようやく全て終了。部屋に戻ってこの日記を書いている所。そろそろ終わって明日へページを渡そう。明日は兄がここ北京でも助けてくれる。ありがたいことだ。僕は3日午後2時の会議の為に遅れず帰国だ。
9月2日
朝出発の時になって昨夜は夜も遅く自分達の宿泊しているホテルのサイズも解らないくらいだったが、北京第一城ホテルサイズでビックリである。紫禁城と同じ建物の建てかたをしている。私の寝ている所から二階先生方が会合を開いていた所までは相当の距離がある。このホテルの2ヵ所にゴルフ場があり、少々バブル気味の建物だ。今の北京周辺の企業の人は週末にミーティングとゴルフを組み合わせて泊まるのだそうだ。とにかく連休や休日前はこれだけ広大なホテルなのに一杯なのだそうだ。ところでこのホテルはCDロムがここからリンクしているので見て下さい。玄関に「新しい波」歓迎の垂れ幕を見つけたので1号車2号車にわけて写真を撮った。さて、これから八達嶺万里の長城に向けて出発なのだが、特に私の希望を入れてもらって、まず、北京798芸術区へ行った、ここは今、北京のアートシーンとしては最も注目を集める所。ところが朝が早すぎて画廊は全て閉まっているかとがっかりしていたのだがなになに1軒だけ開いていた画廊を発見!!ちょっとおもしろい、展覧会を見ることができた。力強いアートを見ることができた。今の時代中国アートは国際的なアートの世界でも急速に力をつけている時でもあり、今後の訪中の際にゆっくりとまたここを巡りたいと思った。さて、ここから万里の長城、私にとっては3回目かな?でもこれまで支えてくれた後援者と一緒の訪問であるので特別な時間だと思い私も少し登ってみた。それほど暑いわけではなかったが、やはり暑かった。少し上って皆さんと写真を撮って半田の皆さんと大議論になった。対中国に対する今後の付き合いの仕方についてこれまでのお詫びが足らないとか過去の戦争は侵略戦争なのだからとか強い意見が出た。私は1964年生まれ。日中戦争と言えども教科書でしか知らない。今の中国が何かにつけて、過去を持ち出すのもどちらかと言えば外交交渉の手段として持ち出しているという事の方が多い様に見受けられ実際の交渉もそうした事が多い中で、一方で日本側の過去の一時期に中国に対し不幸を押し付けた事実について一度ならずも2度3度、国家の最高の立場にある人の言葉があったのでこれでおしまいだとは思わないが大国、中国も大国らしく立ち舞ってくれているのだからいつまでもいつまでも自虐的史観に立っていては私は未来が開かれないという事を強調したいと思っている。ただ、人間は一度謝ればそれでおしまいかと思われるような無礼をしてはならないとも思っている。しかし、私達は発展してゆく国、日本を背負っている政治家として自信を持って握手のできる様に歩こうと声のかけられる友好をつくりたいのである。5月の連休に訪中した際につくづく思いこのレポートにも書いたのだが、やはり温家宝首相の訪日の際のテレビでの国会中継を中国全土に流した事の意味の大きさは本当に大きな出来事だったと思う。ひとりひとりの国民が理解される様にする我々の具体的な行動が大切なのではないだろうか。互いに厳しく言い合ってなんの生産性がある議論となるだろうか。まず大道で未来に向けて共に歩くという事ができる様にする、それこそ一番大切なことではないか、車に乗って北京に戻る時私は車中で皆さんに私の思う所を申し上げた。その後、少々遅れて昼食会場へ。ここで8ヶ月ぶり兄と会う。80人が集まって食べる最後の食事だ本当に皆さんによく参加をしてくださってありがとうと申し上げ乾杯をした。ここからは兄が私の代わりに皆さんと一緒に釣魚台へ行く事となる。北京に兄が居ること自体ありがたい。ここにきても選挙の時の様に世話になってしまった。食事も終わって最後の記念撮影をした。私は一路北京空港へ、明日の国対の会議に出席するべく向かった。今回は初めって後援会の海外旅行ができたこと、日中友好35周年の記念に二階先生と共に訪中することができたこと、そして周恩来さんの歴史をこの際に訪ねることができたこと、日中間の事をあらためて考える良い機会だったこと。全ての面で私は勉強することができた。大変良い機会だった。参加して下さった全ての皆さんに感謝を申し上げながら明日からの国対の仕事に向けて一路成田へ帰国することとする。
平成19年9月2日
北京国際空港にて 衆議院議員 伊藤 忠彦
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